これから、この国で生きていくために ―「リップヴァンウィンクルの花嫁」―

 「リップヴァンウィンクル」とは1820年に発表されたアメリカの小説のタイトルで、アメリカ版浦島太郎と言われれている。本作の主人公・七海は安室という便利屋の紹介で、真白という女性と伴に現実離れした生活を始める。その生活は、彼女にとって今まで得ることのできなかった幸せな生活であった。ただその生活は長くは続かなかった。私が最初に受けた印象は不快な「現代の空虚感」であった。スパイク・ジョーンズの「her/世界でひとつの彼女」を思い出す世界観であった。

 

 日々感じているこの空虚さはどこから来るのであろうか。SNSの発展により誰もが違う名前を持ち、別の人間としてネットに存在するようになった現代。本当のことは言わず、相手が本当のことを言っているのかも分からず。どこにも真実がないような気がする。ただ一方では、真実ではないから救われることもある。劇中でも血のつながりのない男女5人が、一時だけ家族として過ごす。血のつながりがないことは分かっていながら、血のつながりのある家族では得ることのできなかった心地よさをみんなが実感していた。終盤の葬式シーンで、来ることのない親族の代わりに親族として参加することが、何よりもそのことを物語っている。

 虚飾され、実のないものが溢れ、私たちはあらゆるものを実感することが難しくなってきている。身体性を失い、誰もが浮遊している。臨時教師である七海は声が小さく、マイクという機械を通して声を発することを生徒に求められる。結婚式には離婚した両親がその事実を隠して出席し、親族席にはエキストラが参加している。式場にいる堀潤紀里谷和明、フジテレビのアナウンサーといった出演陣もそれぞれの普段のキャラクターを引き継ぐ役柄で劇中にいるが、どこか嘘っぽい。

 そんな嘘っぽさの中に、異質な存在がある。七海を導く、真白という女性である。彼女はAV女優という役柄で、彼女のマネージャー役に元AV女優の夏目ナナや現役AV女優も女優役として出演している。虚構の世界の中にいるAV女優という役が、この映画の中では一番身体性を伴い、嘘がない。彼女たちから発せられる台詞は妙に説得力があり、生々しい。最後に母親が娘の仕事を恥じ、服を脱ぎ裸になるシーンはなんとも滑稽で悲しかった。紛れもなくそこに身体はあり、彼女は存在した。しかし、彼女の体から生み出された娘の肉体はもうこの世にはない。

 

 真白は七海に語る。この世界はやさしさに溢れている。喫茶店は朝からコーヒーを出してくれるし、ラーメン屋はおいしいラーメンを作ってくれる。クリーニング屋は翌日には服を綺麗にしてくれるし、美容院は髪を綺麗にしてくれる。病院に行けばお医者さんは病気を治してくれるし、電車の運転士さんは私たちを遠くまで連れてってくれる。こんな私のために。真白の働く理由は、お金ではなかった。

 仕事はお金のため。その事に納得することが、大人になることの条件のような気がしていた。しかしそんなことはないと、大人がしっかり思い出すべきなのではないだろうか。誰かが誰かのためにすること。他の誰かができないことを、自分が代わりにすること。自分にはできないことを、他の誰かがしてくれること。暗躍する安室が最後まで悪人に見えなかったのも、どこか七海のためにやっているように見えるからであろう。それを思い出せば、私たちの浮遊した身体はゆっくりと地に降りてくるのではないだろうか。

 

 3.11以降、岩井俊二が日本に戻って作品を撮ろうと思った理由が、なんとなくわかった気がした。

テレメンタリー2016「いじめは空気だ―届かなかったSOS-」

 テレビ朝日で深夜に放送された、テレメンタリー2016「いじめは空気だ―届かなかったSOS-」を見た。

 

 長崎県新上五島町に住む当時中学3年生の男子生徒が自ら命を絶ち、その後の家族の姿や第三者委員会の取り組みを追ったドキュメンタリー番組であった。

 

 部活も副キャプテンを務め、成績優秀だった彼。一生懸命で真面目に物事を取り組む人ほど責任感もあり、自身で問題を解決しようとしていたのであろう。ただ、世の中には自身で解決することのできない問題は多くあり、それに真面目に向き合うことばかりがいいこととは言えない。数年前の自分自身のことを思い出す。

 

学校を卒業し初めて社会人になった私は、人を殺す社会があることを知った。基本的な人権や人の尊厳は、当然のように守られ与えられるものではなかった。そしてそれは、自分自身の努力で改善できる話でもなかった。今まで勉強も部活動も努力することでよい成績を残すことができた私にとって、初めて解決することのできない問題に直面したのだった。子供のころから、10年以上憧れていた仕事を辞める決断はなかなかできなかった。今までその憧れを支えに生きていたため、なおのことであった。「逃げる」という手段は、私の選択肢に入れることがなかなかできなかった。休む暇もなく働いていた私には悩む時間もあまりなかったが、8ヵ月が過ぎ精神的限界は優に超えていた。私は仕事を辞めた。

私の決断を後押ししてくれたのは、彼もLINEのアイコンにしていた彼女であった。映画しか好きなものがなかった私に、別の面白いものが世の中にはいくらでもあることを教えてくれた。そこから私は、子供の頃から思い描いていた未来とは違う未来を歩き始めた。想像していなかった未来を生きることは、刺激的であった。楽しい思い出も多くできた。そして、違う仕事を始めたことで、自分が解決できなかったあの問題に対して、少しづつ解決方法を見出すことができ、微力ながら実行もできている。

 

 LINEのアイコンを彼女にしていた彼に、私は特別な感情を持ってしまった。私もTwitterのアイコンを長らく彼女にしていた。彼が自殺の5ヵ月前に書いた作文の筆跡も、私の筆跡とよく似ていた。彼にできることはもう何もない。これから何者でもない私にできることがあるとすれば、それは自分自身の身近な友人に手を差し伸べることであろう。「人の笑顔は人を笑顔にし、その笑顔がまた別の人を笑顔にすると思う。」その言葉を私も信じて生きていきたい。

私をこの世に留まらせるもの-「岸辺の旅」-

 出張帰りの新幹線車内でふと映画を見に行きたくなり、東京駅に着くとすぐに錦糸町へ向かった。駅から徒歩数分の楽天地シネマズに入るのは初めてのことだった。昔ながらの映画館といった雰囲気で、少し薄暗いビルの6階にあった。見たい映画は「岸辺の旅」。監督は黒沢清。カンヌで監督賞を受賞した作品であった。

 席は久しぶりの自由席で、開始10分前に列に並ぼと向かったが、数人のお客さんしかいなかった。公開初週でかなり大きいスクリーンのある劇場であったが、結局観客は10名少々といったところだった。妙に静かで広い空間のある劇場は、この映画の雰囲気に合っているような気がして、心地よかった。

 

 行方不明だった夫・優介が3年ぶりに妻・瑞希のもと唐突に帰ってくる。亡霊として。物語はそこから始まる。

 ただこの映画が特殊な作品であるのは、死んだ後も亡くなった夫には新しく出会った人と新しい経験や思い出が出来ていることだ。妻のもとに辿りつくまでに様々な所でお世話になった人がおり、その人たちに妻を連れて会いにいくというのだ。そこでは、新聞配達や餃子を作り、はては先生と慕われ村人に講義などをしていた。通常、人は死ぬと時間が止まる。生きていた頃の過去は振り返ることはできても、新しい人と新しい経験、未来を作ることはできなかったように思う。

 そして、もう一点特殊なことは、死者を誰もが ‟見る″ことができるという点だ。亡くなった人への思いが残っている人、霊感の強い人だけが見えるのではなく、そこにいる人は全員死者(優介)が見える。しかも、普通に生きている人として。人々は夫・優介を死者として扱うことはない。死者であることを知っているのは妻だけであり、その事実は次第に意識からなくなっていく。

 

 この特殊な設定があるため、一つの大きな疑問が私には湧いてくる。「生きている時と何が違うのであろうか」と。通常、人は死ぬと生きている人に会うことはできないし、生きている人に何かをすることもできない。そもそも記憶や思いなど一切なくなり、そこで文字通り終わりになってしまう。終わりがあるからこそ、限られた時間の中でなにかをしようと考える。しかし、この映画の中では「生」と「死」の境界線があまりにもなく、地続きに存在している。終わらない、終わっていないのである。死んだ人と生きている人を特別分けて描いてはいない。主人公の妻・瑞希も映画の後半で「私もそっちにいこうかな」という台詞が自然と出てくる。夫も両親も亡くし、この世にとどまる理由のない彼女の発言は私の身に容赦なく迫ってくる。

 

 見終わった後も暫くこの映画を引き摺ってしまった。この世に私を引き留めるもの、とどまらせるものは何なのか。改めて考えさせる作品になった。

2015年9月19日

 

 2015年9月19日未明、安全保障関連法が可決された。

特定秘密保護法が可決された2013年12月頃より、政治に対して興味を持ち、私なりに勉強を始めていた。時期が時期なので、触れないわけにもいかず、今回のブログを書いている。

 今回の法案に関して、「戦争法案」なのか「戦争抑止法案」なのかといった議論が起きる。安全保障の問題はこの国において極めて重要な問題であることに異論はない。しかし、現状果たしてその議論へと進む段階であるのであろうか。その段階にすら至らない、大きな問題があると私は思っている。

 それは憲法違反の問題である。議論は重要であるが、それはあくまでも憲法の範囲で行うべきことである。その範囲をこえるのであれば、まず憲法を変える手続きから始めるのが原則である。憲法とは「国民」が「国家」に守らせる法であり、「国家」が権力を乱用しないためのものである。今回の法案を通すことが、何を意味するのか。私たちが自由に発言し、考えることすら奪うことにつながるのだ。

 たしかに世界情勢は変わった。アメリカ一強の世界のバランスは崩れ、中国やロシアが勢いづいている。戦争からテロの時代へ移り、終わりの見えない戦いも強いられている。

今回の安全保障の問題を議論する際、脅かす存在として中国の名前を挙げる人は多くいる。尖閣諸島の問題があるので、当然といえなくはないが、果たして中国と戦争になるのであろうか。その危険性はどの程度現実味のあるものなのであろうか。国内向けのパフォーマンスに過ぎないのではないのか。グローバル化した今、戦争が自国の首を経済的に絞めることは間違いない。そのデメリットを引き受けてまで、戦争を起こす理由はあるのだろうか。

 政策とはすべてにおいて事後的評価しかできず、そのため正しい選択をとれた確証は現時点では誰にもわからない。そのために歴史を学び、自国の、他国のかつての選択を参考にすることしか、結論を導き出すことはできない。

 政治家ではない私たちに何ができるのであろうか。勉強を始めてからというもの、政治の問題ほど難解なものはないであろうと日々実感している。自分と違う意見を持つ人と出会った時、当たり前のように思っていた前提を共有することができず、言葉に詰まることも多々あった。勉強不足は否めず、恥をかくことも多い。そして勉強して分かったつもりになっていても、自分の考えが正しいとは言い切れないのである。それでも話続けること、話を聞くことにしか未来への希望はないと思っている。政治家でない私たちだからこそ、やるべきことは多くあるのではないだろうか。

 

1日の時間

 1日の時間を長くすることはできないだろうか。

 会社勤めの私は朝起きて、朝食も食べずにすぐ電車に乗る。会社につけば、昨日もしくは先週やり残した仕事が机の上で待っている。一通りいつものお客さんを訪問し、帰ってから事務仕事を始める。仕事が一段落したと思って、窓を見るとすでに日が落ちている。一日はあっという間に終わる。AD時代に比べれば、家に帰ってテレビを見る時間がある分、いくらかましになったとは言え、すぐに終わってしまう感覚は変わらない。

 平日は致し方ないとして、休日くらいはどうにかならないかと思う。とりあえず、携帯電話の電源を切る。テレビをつけない。速度感のあるものはとりあえず遮断してみる。朝は駅前のAEONで食材を大量に購入し、料理をする。今日は鮭の切り身を買った。フライパンを熱し、生の鮭を置くとジュウと音がする。当たり前のようにするこの音が、普段の生活から取り除こうと思えば、いくらでも取り除くことができる。

 実家にいる時は母が作った料理を、録画したテレビ番組を見ながら食べていたが、今日はしない。白米が旨いことに気が付く。

 朝食をとり終え、吉田凛音の「真夏のBeeeeeeaM.(Short Ver.)」をYOUTUBEで見ると、洗濯を始める。洗濯機の回る音も嫌な音ではない。規則的なその音を聞きながら、長らく放置していた押入れの整理をする。年末海外に行く予定なのだが、パスポートがどこにあるのか分からなかった。実家にはないとのことなので、この家のどこかにはあるであろう。

 押入れの整理をすると思いがけないものに出会う。大学時代の講義のレジュメ、妹のグアムのお土産のお守り、昔書いた脚本。脚本の企画意図に「人間が求めるものは結局愛だけである」と書いており、綺麗に畳んで押入れの奥深くに戻した。

 映画や小説が好きな私は、休日の多くの時間をそれに費やす。ただ映画にしろ、小説にしろ、没頭していると時間が経つのは早い。2時間の映画を3本、人の一生3回分の時間を映画の中で過ごしたとしても、現実世界に戻ると既に日が暮れていたりする。現実世界との時差ボケで寝るまで大概ぼんやりしてしまう。

 ふと、以前にブログサイトの登録をしていたことを思い出した。友人に勧められ登録したものの、一度も記事を書かずに放置状態にしていた。これをいい機会と捉え、ブログを書くことにした。だがしかし、誰に向かって何を書くというのだろう。果たして読む人はいるのだろうか。あまり下手な文章を晒すことも憚られる。いろいろ考え始めると中々筆は進まらない。映画の話か、アイドルの話か、それとも政治の話でもしてみるのか。夕飯はさんまにしようと思い、またAEONに行き、カートを押す。カートを押しながらも結局何も決まらない。帰りがてら、行きつけの本屋へ行って西加奈子のエッセイを手に取ってみる。西さん好きだなとは思うが、特別何も浮かばない。

 気が付けばあと数時間で今日が終わる。今日は果たして長かったのだろうか。よくわからない。明日は用事があるので、たぶん今日より短いのだろう。