私をこの世に留まらせるもの-「岸辺の旅」-

 出張帰りの新幹線車内でふと映画を見に行きたくなり、東京駅に着くとすぐに錦糸町へ向かった。駅から徒歩数分の楽天地シネマズに入るのは初めてのことだった。昔ながらの映画館といった雰囲気で、少し薄暗いビルの6階にあった。見たい映画は「岸辺の旅」。監督は黒沢清。カンヌで監督賞を受賞した作品であった。

 席は久しぶりの自由席で、開始10分前に列に並ぼと向かったが、数人のお客さんしかいなかった。公開初週でかなり大きいスクリーンのある劇場であったが、結局観客は10名少々といったところだった。妙に静かで広い空間のある劇場は、この映画の雰囲気に合っているような気がして、心地よかった。

 

 行方不明だった夫・優介が3年ぶりに妻・瑞希のもと唐突に帰ってくる。亡霊として。物語はそこから始まる。

 ただこの映画が特殊な作品であるのは、死んだ後も亡くなった夫には新しく出会った人と新しい経験や思い出が出来ていることだ。妻のもとに辿りつくまでに様々な所でお世話になった人がおり、その人たちに妻を連れて会いにいくというのだ。そこでは、新聞配達や餃子を作り、はては先生と慕われ村人に講義などをしていた。通常、人は死ぬと時間が止まる。生きていた頃の過去は振り返ることはできても、新しい人と新しい経験、未来を作ることはできなかったように思う。

 そして、もう一点特殊なことは、死者を誰もが ‟見る″ことができるという点だ。亡くなった人への思いが残っている人、霊感の強い人だけが見えるのではなく、そこにいる人は全員死者(優介)が見える。しかも、普通に生きている人として。人々は夫・優介を死者として扱うことはない。死者であることを知っているのは妻だけであり、その事実は次第に意識からなくなっていく。

 

 この特殊な設定があるため、一つの大きな疑問が私には湧いてくる。「生きている時と何が違うのであろうか」と。通常、人は死ぬと生きている人に会うことはできないし、生きている人に何かをすることもできない。そもそも記憶や思いなど一切なくなり、そこで文字通り終わりになってしまう。終わりがあるからこそ、限られた時間の中でなにかをしようと考える。しかし、この映画の中では「生」と「死」の境界線があまりにもなく、地続きに存在している。終わらない、終わっていないのである。死んだ人と生きている人を特別分けて描いてはいない。主人公の妻・瑞希も映画の後半で「私もそっちにいこうかな」という台詞が自然と出てくる。夫も両親も亡くし、この世にとどまる理由のない彼女の発言は私の身に容赦なく迫ってくる。

 

 見終わった後も暫くこの映画を引き摺ってしまった。この世に私を引き留めるもの、とどまらせるものは何なのか。改めて考えさせる作品になった。